ダーク ピアニスト
―叙事曲2 Augen―

第1章


「鳥……」
男がベッドの中で呟いた。
「何……?」
掠れた声で女が訊いた。
「羽ばたきの音がした……」
女の腕がその首に絡み、顔を近づけて言う。
「夜更けに飛ぶ鳥なんていないわよ。いけない烏達の他にはね」
「ああ……」
男は女の体を引き寄せて自らを闇に溶け込ませようとした。閉められたカーテン。密室の部屋……。しっとりとした闇に埋もれ、蠢く影は二つ……。淡い間接照明の灯りさえ、今は遠い記憶の果てに咲く一輪の夢でしかない。
「あなた、きれいな目をしてるのね。まるでエメラルドグリーンの海のよう……」
女が言った。

――きれい……。まるでエメラルドみたいだ

漆黒の闇の中に昔の記憶が浮き上がる。黒い瞳……。屈託のない笑みで見上げて来る子供……。初めて会った時の印象そのままに、彼は今も同じ瞳で自分を見上げて来る。そして、何年かが過ぎた時……。

――見て! 僕、鳥さんになったの

翼のコスチュームを着て両腕をはためかせ、風のように走る彼を見て男は言った。

――何の真似だ?
――ギルは鳥さん嫌いなの?

いつまで経っても子供のまま、彼に付いて来る黒い小鳥……。

「鳥は嫌いだ……」
男は言った。
――どうして鳥さん嫌いなの?
――理由なんかない。だが、二度とおれの前でそんな格好をするな

(もう二度と……)
「何を見てるの?」
女が言った。
「美しい君のアンバーの瞳を……」
「嘘」
「本当さ」
二人はそっと唇を重ねた。と、突然、彼の上着の中で微かにバイブレーターが響く。
「悪いな」
男はすっとベッドから離れると端末を開いた。一瞬、目を射るような光が厚いカーテンを照らす。彼は静かにそれを閉じると闇の中で身支度をした。
「仕事?」
ベッドの中の女が訊いた。
「ああ」
「男はいつもそうなのね。理由も告げずに行ってしまう……」
「理由か……」

――見て! 鳥がいっぱい……

「理由など必要ないさ」
(失くすための理由など……)
そして、男は出て行った。


灯りは点いていなかった。薄く輝く街頭の下で男はふと腕時計を見た。午前2時を少し過ぎたところだ。夜明けにはまだ間がある。そこはパリ、モンマルトルの小さな家だった。持ち主はルイーゼ C ラズレイン。ジェラードの妻である。が、彼女はもう何年も前に他界していた。つまり、実質上、ここはジェラードの家であった。が、ギルフォートは今もここは彼女の家だと思っている。彼女が生きていた頃と寸分も違わない壁紙や絨毯。そして、品のいい調度品や家具など、彼女のセンスで揃えられた品々……。今回のターゲットがパリ在中であったため、ジェラードはこの家での滞在を彼らに許したのだ。
(ここにいるとどうも昔のことばかり思い出す……)
飾りの掘りこまれた玄関の取っ手に手を掛けて彼は思う。

――鳥なんかみんないなくなってしまえばいいんだ!

ギルフォートは自嘲の笑みを浮かべながら家の中へ入った。途端に赤外線センサーで灯りが灯る。正面の壁に据えられたアンティークな鏡が彼の姿を映した。だが、彼をメールで呼びつけた本人の姿はない。
「ルビー」
静かに呼んだ。しかし、返事がない。

――「大至急戻って来て」

絵文字で記されていた暗号。

――早く! 早く戻って来て

しかし、リビングにもキッチンにもその姿はない。彼は大股で階段を上った。

――鳥がいっぱい

胸騒ぎを覚えた。こんな夜中にメールを寄越すことなどなかった。第一、普通ならとっくにベッドで横になっている時間だ。それを……。

――早く戻って来て

(まさか、何かあったのか?)
彼らの周囲には常に危険が罠を張っている。一つ間違えばたちまち命を落とす。そういう世界に身を置いているのだ。
「ルビー……!」
そこには間接照明が一つ灯っていた。ルビーはベッドルームの窓際にいて、厚いカーテンの裾を丸めて抱え、絨毯に座り込んでいる。
「どうした?」
「来てくれた……」
ルビーが言った。
「本当に戻って来てくれたんだね」
と泣き笑いのような顔をする。
「何があったのかと訊いてるんだ」
しかし、彼はその問いに首を横に振って答えた。
「何も……」
「何だって?」
男の眉が僅かに動いた。

「寂しかったの……」
彼は男を見上げて言った。
「夜は暗くて恐ろしいの。独りだと震えちゃうの。でも、もう大丈夫だよ。だって今はギルが来てくれたから……」
つうっと左の頬に涙が伝った。それが女ならば、すぐに抱き締めて慰めのキスでもしただろう。だが、ここにいるのは……。ギルフォートは黙って踵を返した。
「待って! 行かないで……」
ルビーは子供のような声で呼んだ。が、銀髪の男は振り返ろうともしない。そのまま部屋を出て行こうとした。その時、不意に入り口に影が現れた。

「待てよ。熱があるんだ」
立ちはだかった男。それは画家のアルモスだった。
「貴様……もう少しで撃ち殺すところだったぞ」
ギルフォートは抜き掛けた銃をホルダーに戻して言った。
「ふん。生憎おれは悪運が強いんだ」
アルモスはまるで気にしている様子はない。
「一体、何処から侵入した?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。ちゃんと玄関から入ったさ。坊やに鍵を開けてもらってな」
「ルビー、おれが留守の間、勝手に家に人を入れてはいけないと言ってあったろう?」
ギルフォートが振り返る。と、ルビーは抱えていた毛布とベッドの間にうつ伏せに倒れていた。
「ルビー」
慌ててギルフォートが抱き起こす。が、彼はぐったりとして意識がなかった。
「酷い熱じゃないか」
ギルフォートが言った。
「だから言ったろうが。熱があるって……」
アルモスが見下ろす。

「貴様、こんな状態になるまで何もせずに放っておいたのか?」
「仕方がないだろう。医者に行くのも薬を飲むのもいやだと言うんだ」
「そういう問題じゃないだろう」
そっとベッドに寝かせて振り返る。
「おまえだって放置しようとしてたじゃないか。そのまま朝まで放っといたら肺炎起こして死んじまったかもしれないんだぞ」
「貴様……!」
ギルフォートは男を睨みつけるとおもむろに近づいた。
「どけ!」
ドアの前にいたアルモスを腕で突き飛ばすとそのまま階段を下りて行った。
「何処へ行く?」
コートを羽織って出て行こうとする男をアルモスが止めた。
「医者を呼びに行く」
「必要ない」
アルモスが言った。
「何?」
「医者ならもう呼んだ。そろそろ到着するだろう」
「……」
重い沈黙の中……。誰もいない奥の通路やキッチンへ続くドアの向こうで得体の知れない闇がじっとこちらを見つめている。そんな気がした。それはソファーの下や飾り棚の影に潜み、じっと息を潜めている。そして、常に隙を見つけては襲い掛かる機会を覗っているのだ。

――お兄ちゃん、怖いよ。闇の獣がぼくを襲うの
ミヒャエルはいつもそれを恐れた。

――もう怖くないよ。ギルが来てくれたから……
ルビーもまた同じ闇を恐れていたのか。男には知りようがない。しかし……。

「何故もっと早くそれを言わない?」
詰問するようにギルフォートが言った。
「鳥……」
闇の中でアルモスが唇の端を上げている。
「何……?」
沈黙。そして、男の胸に去来する影……。
「殺す」
その横顔にランプの傘が深い影を落とす。闇の中で光る緑……。ギルフォートの手が冷たい鉄の塊に触れた。その時、不意に玄関を叩く音がした。アルモスに呼ばれた医者が到着したのだ。

「今夜は二度命拾いしたな」
ギルフォートが言うと玄関のロックを外し、医者を招き入れた。
「ドクトル ウェーバー……」
ギルフォートは年配のその医師を見て驚いた。
「ボン ソワール。久し振りだね、この家を訪れるのは……」
それはまだルイーゼが生きていた頃に、何度か面識のある医者だった。
「それで、病人は何処だね?」
「上です、ドク」
二人が階段を上って行く。
「何だ、知り合いだったのか……」
あとからアルモスも付いて行った。

「どうやら流感に感染したようですな。だが、心配ない。注射を一本しておいたので直に熱は下がるでしょう」
ドクトル ウェーバーはそう言って診察道具を鞄にしまった。
「君は確かギルフォートだったね。しばらく姿を見なかったが、元気そうで何よりだ」
医者が言った。
「はい。ありがとうございます。ドクもお元気そうで……」
「ルイーゼも元気にしているかね?」
「彼女は……」
一瞬、ギルフォートの声が詰まる。
「……ルイーゼは亡くなりました。もう12年になります」
「そうか……」
医者は悲しそうな顔をしたが、すぐに職業意識を取り戻して言った。
「処方箋を出しておく。あとで薬局へ取りに行って……。三日間はきちんと服用させるようにね」
「わかりました。ありがとうございました」
そう言うとギルフォートは医者を玄関まで見送った。アルモスは付いて来ていない。玄関を閉めて重い錠を掛ける。金属性のそれは飛び散る羽と断罪の響きがした。

――ルイーゼは元気かね?

過去を知る医師。過去を映す鏡。そして、過去を知る家……。

――鳥……

知らない筈の過去……。
(あの男、何を知っていると言うんだ……?)
振り向くとすぐそこに闇があった。視界に入る何もかもが闇に見えた。

――鳥なんかみんないなくなってしまえばいいんだ!

昔の自分が叫んでいる。
(そうだ。ミヒャエルを……弟を奪った鳥なんか……!)
それはとうに過ぎ去った過去だった。とっくに克服していた筈の罪悪が闇となって彼を襲った。が、その闇の翼を男は強い意志で踏み砕いた。悲鳴を上げて散る闇にルビーの漆黒の瞳が重なる。彼はじっと男を見つめ、何か言いた気な表情を浮かべた。その輪郭の周囲に髪の漆黒が重なり、更に黒い衣装が重なった。そして、その輪郭だけが薄っすらと光って見える。そこにルビーがいる筈はないのに……。
「偽りだ……」
男が否定すると、くるりと背を向けて、闇の子供はぱたぱたと階段を駆け上がり……。だんだん小さくなって……。消えかけた瞬間、それは弟のミヒャエルと重なった。

――お兄ちゃん

振り返った瞳はグリーン……。ギルフォートと同じ……。が、それはやがて、再びルビーの黒い瞳に変わる。

――見て! ギル、こうすると鳥さんみたいでしょう?

「やめろ!」
突然、両手にずしりとした重みを感じた。それは少年時代に手に入れたライフルの重みだ。

――殺してやる! 鳥なんかみんな……みんな……

少年だった頃の自分がライフルを構える。

――殺してやるんだ! あいつも……!

しかし、少年が狙った獲物は鳥ではなかった。それは鳥に模した服を着た人間……。
「ルビー……」

――見て! 僕は鳥なの

「やめろ! それは鳥じゃない……!」
今の自分が叫ぶ。が、ひらひらと飛ぶ彼を少年の自分が狙撃する……。
「やめろ!」

闇の中で泣いている子供……。
(ルビーか? それともミヒャエルなのか……?)

――鳥……

それは自分だった。

――鳥なんかみんな消えて……
花の香りがした。
――鳥を撃っては駄目よ。ギルフォート
ルイーゼだった。
――何故?
――鳥は罪を犯さない。罪深いのは人間の方だから……

泣いていたのは自分だった……。

「ルイーゼ……」
(もう克服出来たと思っていたのに……)


アルモスが降りて来た。
「坊やはぐっすり眠っているよ。おまえも休んだらどうだ?」
「おれに命令するな」
「ふん。厄介な野郎だな」
と画家は鼻を鳴らす。
「黙れ」
「怒るなよ。せっかくいい物を見せてやろうと持って来てやったんだからな」
と四角い大きな包みを広げる。
「関係ない」
ギルフォートは立ち去ろうとした。
「待てよ」
アルモスが呼び止める。
「何を……」
階段の上り口に足を掛けていた彼が振り向く。

「まさか……!」
それは一枚の絵だった。
「見覚えがあるだろう」
アルモスはにっと笑って絵を自分の方に裏返す。
ギルフォートは急いで近づくと男の手から絵を取り上げてじっと見つめた。
「ミヒャエル……」
間違いなかった。それは緑の森で戯れる二人の子供。しかも彼らが身につけている服や持ち物、そのすべてに見覚えがあった。寸分違わない過去がそこにあった。
「何故……?」
驚愕の瞳でその男を見た。

「はっはっは。やっぱりそうか。はは。こいつは愉快だ」
アルモスが大声で笑った。が、ギルフォートの耳にはそんな声など入らなかったようだ。じっと絵の中の少年だけを見つめている。
「たまたま森で写生をしていたら、天使が二人舞い降りたのさ。おれは夢中で筆を取ったさ。そして、絵を仕上げた。が、その時にはもう天使の遊戯の時間は終わっちまったらしく、その姿は何処にもなかった。が、おれにとってそんなことはどうでもよかった。この無邪気な天使の瞬間を捕まえることが出来たんだからな。おまえは知らないだろうが、おれが人物画を描かないのは、人間が醜い生き物だからだ。この世に罪を犯さない人間などいないからな。いるとしたら稀にみる天使の心を持った子供くらいさ」

――罪を犯すのは人間よ

アルモスはまだ話を続けていたが、ギルフォートは聞いていなかった。
「この絵を……譲ってくれ」
男は絵から目を離さずに言った。
「何?」
その瞳を見つめてギルフォートが続ける。
「頼む。譲ってくれ。金ならいくらでも出す」
真剣な表情だった。が、アルモスはさっと男の手からその絵を取り上げる。
「やれねえな」
「何故?」
「こいつはおれにとっても宝物なんだ。おいそれとは譲れねえ」
とニヤリと笑う。
「……!」
「ましてや相手があんたじゃあな」
「他の者になら譲るのか?」
「いいや。やらねえよ。言ったろう? こいつはおれの宝物なんだ。特に今のあんたにゃ、とても渡せねえな」
アルモスは遠く天井に吊るされた飾り籠を見た。そこから垂れ下がっている緑色の弦や葉を……。

「いいのか? おれがその気なら、おまえを殺してでも奪うことが出来るぞ」
その言葉にアルモスは笑った。
「そのつもりならとっくにやってるだろう? 第一、おまえにゃおれは撃てねえよ。そんなことをして奪っても絵の中のおまえが許す筈がない」
そう言うとアルモスはその絵をまた大事そうに包んだ。
「……わかった」
闇を見つめてギルフォートが頷く。
「それと、これだけは言っておく。弟を泣かすようなことだけはするな。後悔するぜ」
そう言うとアルモスはさっと道具を抱えて出て行った。
――弟を泣かすようなことだけは……
その言葉が妙に引っ掛かった。

朝の光を入れようとルビーの部屋のカーテンを開ける。彼はまだ眠っていた。そっとその額に触れてみた。熱は下がっているようだった。
「……ごめんなさい」
突然ルビーが言った。それからゆっくりと目を開けてじっと男の顔を見つめる。
「何がだ?」
「迷惑掛けて……」
「迷惑じゃないさ」
男は言った。

「アルモスはいつからいたんだ?」
「夕方……いろいろ親切にしてくれたの。冷たいタオルを持って来てくれたし、食欲がないと言ったら、オートミールを作ってくれた」
「そうか……。で、奴のオートミールは美味かったか?」
「よくわからない。僕、本当に食欲がなかったからほんの一口しか食べれなかったの。それで、残りは彼が食べてった」
「今はどうだ? 何か食べられそうか?」
「うん。少しなら……」
「なら、おれがもっと美味いオートミールを作ってやるよ」
微笑する男を見てルビーが不思議そうな顔をした。

「どうした?」
「アルが言ってた通りだね。呼んだら本当にすぐに来てくれたし、普段は厳しいこと言ってても本当はとてもやさしいんだ。ううん。アルに言われなくたって僕、ちゃんと知っていたよ。でも……」
「でも?」
不意にその頬に涙が伝う。
「何故泣く?」
そっと頭を撫でる。と、涙はますます止まらなくなった。そして、いくら尋ねてもその理由を口にすることもなかった。


その夜、ギルフォートはずっと家にいた。その次の夜にも……。少し元気になったルビーの相手をした。
「見て! ビーズで首飾りを作ったの」
とルビーが得意そうに言った。それは美しい硝子で出来たハートのビーズだった。それが光に当たるときらきらと繊細に輝く。
「誰にあげる?」
「女の子にあげたら喜ぶんじゃないか? たとえばエスタレーゼに……」
ギルフォートが言った。
「うん。そうだね。今度会った時彼女にあげる」
そう言って掲げたその糸が何の加減かプツリと切れた。せっかく繋げたビーズがぱらぱらと散らばる。
「あー……」
ルビーが泣きそうな顔で反射する光の中に転がるビーズを見た。

「多分、結び目が弱かったんだろう」
とギルフォートは言って散らばったビーズを集めてやった。が、切れた糸は結び目ではなかった。
「せっかくエレーゼにあげようと思ったのに……」
がっかりしているルビーを慰めるように男が言った。
「わかった。今度はもっと強い糸を買ってやる。そしたらそれでまた作ればいい」
しかし、ルビーは首を横に振る。
「ううん。いいの。もう作らない……」
「何故?」
「偽りのハートをあげてもきっと彼女は喜ばない……」
「偽りの……」
漆黒の瞳の奥に映るものが何なのか、それは誰にも理解出来なかった。黒は光に透けることがないからだ。
「それで、次のお仕事はいつ?」
ルビーが訊いた。
「明日」